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「怒れる春の風韻
馥郁たる春の芳香
音と色と香の翕然」


音がする。
風の煽る音、
雨の弾く音、
嵐の荒ぶ音、
葉の鳴る音、
波の凪ぐ音、
陽の降る音、
啓蟄の音、
鶯の音、
芽の萌ゆる音、
死にゆく音、
生まれくる音、
――春の足音。
春は、音の季節と云う。

 人は音に導かれるのかも、しれない。
 晃一郎は金管の鳴る音に導かれて、校舎の屋上で斉藤と出逢った。
 優巳は水の鳴る音に導かれて、廊下の曲がり角で里実と出逢った。
 いつみは風の鳴る音に導かれて、校庭の桜の下で香代子と出逢った。
 互いが互いを引きあう力は、偶然を必然へと導く。理を越えた力は、突然にも緩慢にも、簡潔にも冗長にも、訪れる。望むも否も、かかわることなく。
 波紋に波紋が重なった時、作用は干渉を示して、互いに増し、互いに潰し、霊妙なる結果をもたらすのかも、しれない。
 音と音が干渉しあい生まれた力が、なにかを起こすのだろうか。
 その時、理を越えて、なにかは起こるのだろうか。
 神の領域たるこの力を畏入って、古人は「縁」と、斯く名づけたのかも、しれない。
 春は、出逢いと別離れの季節とも、云う。


 大きくそびえる欅が、長い影を落としていた。
 重ねて白樺の輪郭も大地に映し出され、この番いに端を染められたすべり台が、同じくある。
 その隣に、二人が座るベンチの屈折した影絵があった。
 どこか遠くの空で、からすの声。明るく輝いていた彼はすでに傾き、今日の仕事を終えて眠りに就こうとしている。
 いつみと香代子は、赭く暮れなずむ空と同じほどの目で、地平へ沈みかけた夕陽を見送ろうとしていた。涙はすでに涸れてしまい、そのせいか、心は不思議にすっきりした気分で落ちついていた。
(ばいばい、また明日ね)
 心の中で、しばしの別れを恵みの神へと手向ける。冷酷なまでに二人の時間を突き進めていた太陽は、今はいつもの優しい姿に戻っていた。不思議にすっきりとした気分が、そっとおやすみと言える心をも、すくい上げていた。
 その安らぎは、赤くあたたかい光に撫でられているせいだろうか。それとも、涙が言いようのない物哀しさを溶かして、外へ流してしまったのか。もしかしたら、それこそが、時間の流れるがゆえの恩恵なのかもしれない。
 ともあれ、二人の浮かべる穏やかな表情は、静かに落ち着いた公園の雰囲気に、よく合っていた。
 いつみがふり向く。
「おやすみがあるのは、おはようがあるから」
 香代子が向きあう。
「おはようがあるから、おやすみを言える」
 鶏と卵の合言葉で心を交わしあうと、二人の少女は、それこそ天使の微笑みを与えあった。
 まだ小さな雛達は、大空へはばたく日がくることを待ち望んでいる。そう信じる力こそが、少女に勇気をもたらし、希望へと導いているに違いない。

 時が流れれば今は過去になってしまうけど、
 時が流れるから、まだ見ぬ明日がくるのだ。

 合言葉は、そんな勇気を授けてくれた。
 頬を撫でる凪ぎ風は優しく、色彩を赤から紫へと描く夕焼けは美しく、天へ向かってそびえ立つ番いの大樹は雄々しく、それでも明日を見つめようとする二人の詩人は、こんなにも強かった。

 いつみは、自由と希望を司る娘だった
 香代子は、勇気と信心を司る娘だった
 二人が出逢う時、女神は愛情を司った

(…………)
(どうしよっかな……)
 いつみは、さっきからずっと迷っていた。迷いと言うにはずいぶん建設的な、選択だった。
 言うべきか。言わざるべきか。伝えるべきか。伝えざるべきか。
 言うなれば、伝えるなれば、今以上の好機もない。本当は選択肢がひとつしかないことも、心の裏ではわかっていた。
(……そういえば、)
(前にもこんなこと、あったよね……)

    †

 その時、いつみは誰かに呼ばれたような気がして、ふり向いた。
 一陣の風に踊る桜花の房。送った視線の先には、大樹へ抱かれるようにして身をゆだね、少女が静かに泣いていた。
 溶けてしまいそうに淡い存在と、消えてしまいそうに薄い影。
 それなのに、衝撃的な印象が心に焼きついた。魅入られたように、目が離せなくなった。
 興味に手を引かれるまま、名も知らぬ少女をうかがい続けた。知らないうちに歩み寄っていて、
「どうして、泣いてるの?」
 まるで告白でもするかの気持ちで、そう問ったのを憶えている。少女は、風に舞う小さな色のかけらを目で追いながら、
「桜が――

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