いつみは、香代子と出逢った瞬間を浮かべていた。
 どうしてあんなに強い印象を受けたのか、なぜあんなに強く惹かれたのか、そして、あの日に宿ったくすぐったい気持ちは、なんなのか。
 今日のさっきまで、わからなかった。香代子と出逢ってからの一年間、ずっと心の中にあった。笑いたくなるような、笑っているような、変な気持ち。不可解なのに、どうしてか心地よくて。
 感じたことのないその正体は、考えもつかなかった。
 ……今日のさっきまで。
 でも、識ってしまった以上は、伝えないと気がすまない。それが性分であることを自分でもわかっているし、そうしたい心が今まさに飛び出しそうである。抑えなければ勝手に言ってしまいそうで怖い。もはや、選択肢は、ひとつしかなかった。
 ――初めて好きになったのが女の子だなんて、初めての告白が女の子相手だなんて、格好いいじゃないか!
 通念や慣習に反する事実も、いつみを縛りつけようとするには、あまりに細かった。まとわりついてくる常識をすっぱりと切り捨てる様は、小気味の良い音まで聞こえそうな潔さがあった。
「香代ちゃん、あのね……」
 しかし、いざ切り出してしまうと、……これは思いのほか、度胸のいる所業であった。
 怖さは、ない。これで香代子との関係が崩れてしまうなど、考えてもいない。なにか確信めいたものが、否定的な返事を一瞬たりとて想像させなかった。
 返事も、いらない。ただ、自分の正直な想いを、ありのままの姿で伝えたい。
 それだけのことなのに、続く言葉はなかなか出てこなかった。
「あ、あのね……」
 少々焦る。まさかこんなに度胸のいることとは、考えてもみなかった。困った。どうしよう。ちらりと香代子の横顔をのぞくも、夕陽を見つめたまま微動だにしていなかった。ふり向く様子もなく、自分の手を握る力のかすかな変化が、意識の傾きだけを教える。
「あっ、あのね、私ねっ、あのねっ……」
 ――だめだ、このままじゃ埒が明かない。
 大きく息を吸いこんだいつみは、次の一瞬にすべてを賭けた。こんな自分、自分らしくないっ!

「いつみちゃんっ、私ねっ、いつみちゃんのことが大好きっ」
 〈か〉が音になる瞬前、不意をついて香代子はふり返った。瞳をまっすぐ見つめて、一気に言い放った。いつみの口は、きっかり七秒も、閉じなかった。
 言葉の意味がだいぶ遅れて認識された時、いつみは顔が赤くなっていくのを自覚した。その倍の早さで香代子の頬も真っ赤に染まり、そのままうつむいてしまうと、
「ずっと、ずっと前‥‥から、好……たの……」
 いつみの手が痛みを感じるほどに力をこめ、細く、か細く、絞り出すようにしてやっと、残りの想いが心から心へと伝わった。
 ――沈黙。
 大きく動いた時間が静けさを取り戻し、出ばなをくじかれたいつみは、少し我を忘れてしまった。うつむく香代子の頬から、雫が落ちるのを認めるまで。
(ごめんね、ごめんね、こんなこと言っちゃだめだよね、でも、)
 辛うじて、それだけ聞きとれた。声はこみあげる音に次々とつぶされていき、もう言葉にはなっていなかった。
 いつみの心が、ぎゅっと悲鳴を上げる。
 香代子も自分のことを好いているのは、それとなしに気づいていた。ただ、恋愛感情であると気づくのが遅すぎただけだ。だから、否定的な返事は考えていなかった。
 でも、目の前の香代子は今、泣いている。しかも、謝っている。次々と伝わり落ちる涙は、太陽に流したものとは、まったく別の色をしていた。抑えてきた感情の爆発は、なぜかとても哀しい色をしていた。
 ずっと苦しんでいたのだろう。迷惑をかけまいと、ずっと思い悩んでいたのだろう。むせぶ声が、なにより物語っている。
 なぜ?
 相手は女で、自分もまた、女だから?
 性分的に恵まれたいつみとは違い、香代子は器用に立ちまわれなかった。迷惑がかかることを案じて、今まで想いを殺し続けてきた。鈍感ないつみよりもずっと早くに気づいていた分だけ、つらさは比べものにならなかったはずだ。
 いつみの心が、さらに締めつけられた。
 春の魔法が、彼女達を狂わせてしまったのかもしれない。魅惑の魔法が不思議な気分を作り出して、長く保たれていた危ない均衡を、崩してしまったのかもしれない。想いあまって、いつみより瞬間先に、香代子の感情が爆発してしまったのかもしれない。
 そうして、天秤は支柱から転げ落ち、壊れてしまった。これではもう均衡も保てないし、修復だって叶わない。
 ――それがどうしたと言うのだろう、直らないならまた新しいのを作ればいいじゃないか!
 いつみは心の中で叫んだ。事実はただひとつ、自分は香代子が好きで、香代子は自分が好きだということだ。他にはなにもいらない、なにもいらないっ!
 だから、ここで謝るのは筋が違う!
 自分は迷惑などと感じていない。間違っているとも思っていない。
 自分の感じたことをそのまま言うのが、どうしてだめなのだろう。
 だから、今は泣くべき時じゃない!
 強い意志を宿した瞳から、雫が一粒、流れ落ちた。一人でずっと悩んできた香代子を、自分の手で救いたいと願った。心の奥底から。
 今度は自分が早く気づいた分だけ、支えてやらねばならない。たとえどれだけ苦しんでも、望むがままに、想うがままに!
 香代子が耐えられないのなら――
 いつみの頬を伝わる涙には、そんな覚悟までも感じさせた。
 脳裏には、香代子と初めて出逢った日、桜を散らしていた春の風が思い出されていた。
(……よく似てる……)
 今までの一年間、いつもそうだった。香代子が泣けば自分ももらい泣きするし、自分が笑えば香代子も微笑んだ。性格のまったく違う二人なのに、なぜか面白いように心が同調した。
 あの日、桜の樹の下で交わしあった、無言の契。あの時も香代子は泣いていたし、自分ももらうように泣いていた。

(香代ちゃんは、まだ憶えててくれてるのかな)
 気になるわけではないけれど、二人の絆を確かめあうには、これが一番てっとり早かった。
 涙に濡れる香代子の頬へ手をやり、そっとふり向かせる。
「……どうして、泣いてるの?」
 自分の頬にも伝わり下りる雫を感じながら、
「桜が――散っちゃうのが寂しいの?」
 指先に宿った雫を、舌先へ乗せた。
 ほのかな味覚は、心なしか甘いように感じられた。
 問われた香代子は、少し遅れてから、かすかな笑顔を涙まじりに作って見せる。
 そして一粒、いつみの頬から指先にとって、同じように。

    †

「……どうして泣いてるの?」
 まるで告白でもするかの気持ちで、いつみは問いかけた。少女は、風に舞う小さな色のかけらを目で追いながら、
「桜が――、桜が、散っちゃう。なんで、なんでこんな一生懸命に咲くのかな。どうして風はこんなに強く吹くのかな」
 頬を濡らし見上げる先には、桜花の房が一陣の風に煽られていた。小さな色のかけらが、儚く散っていく姿があった。春を待ち侘び、長い冬を耐えぬいた息吹が、一瞬にして吹き飛ばされていった。
 いつみは少女の視線を追ったまま、泌みこんできた無常感が心の中ではじけるのを、黙って受け入れた。

 ――それはいつみにとって、懐かしい感覚だった。

 たぶん、この子も、桜がすごく好きなんだろう。だから、花を散らしてしまう春の風が、許せないんだと思う。かつては、自分も同じことを感じてたから。
 いつみにとって、桜は春の代名詞ではなく、そのものだった。だからこそ、この少女の感じ方に興味を示し、桜と風は仲のいい友達なんだよって、わかってもらいたかった。
「………………」
 子供の頃は、桜が咲くたびに哀しくなってた。お花見に行っても泣いてるばかりで、春は好きだったのに、その分だけ嫌いだった。強く吹く風を受けるたび、怖ささえ感じてもっと大泣きしてた。風なんかなくなっちゃえばいいのに、って本気で思ってた。
 どうして、こんなに強く吹くんだろう。こんなに強く吹いたら、桜の花がかわいそう。

 ――懐かしい感覚。

 冷たさの残る風は、まだ冬の匂いを多く残していた。かけらを吹き飛ばす勢いは、やはり無情なものなのかもしれない。
 はぐれた風が頬を撫でて、一筋の流れがあることを、ひんやりとして教える。それを、どこか淡くなった自分の存在の中で、知った。

 桜が――、散っちゃう。

 涙から染みこむ哀しさは、すぐに散らされてしまう桜への同情に思えた。今、自分の影が、少女と同じほどに薄くなっていることを、心のどこかで感じていた。
「一生懸命に咲いても、すぐ散らされちゃうのに」
 少女は、そうくり返したが、
「だからこんなに綺麗なんだよ、きっと」
 いつみは、にっこりと微笑んだ。
「たとえすぐ散っちゃうってわかってても、その間を精一杯に咲こうとするから、こんなに綺麗なんだよ、きっと」
 くり返すいつみの影が、色濃く戻っていた。
「蝉があんなにうるさいのは、一週間しか生きれないからなんだよって、お母さんが言ってたもの」
 小さな色のかけらから、いつみへ、少女の視線が移る。いつみの奏でた抑揚ある声が、今、美しく響いた。共鳴が共鳴を呼んで、心の中、鏡の湖に大きな波紋が広がった。桜の枝葉をしっかりと見つめる彼女の眼差しは、自分にはない存在感を強く主張していた。自分は、あんな瞳で桜を見たことがあっただろうか?
 なんて、綺麗なんだろう。少女は思った。桜の花よりずっと綺麗だと、いつみの横顔を見つめて、感じた。彼女は自分よりずっと純粋であることを、認めなければならなかった。
 同時に、強すぎる印象が反動を呼び起こしも、した。

 明るすぎるその輝きに、呑みこまれてしまいそうな不安。
 純粋すぎるその眼差しに、魅入られてしまいそうな動揺。

 煽られたものは、恐怖心にも似ていた。
 恐怖?
 そうかもしれない。
 だったら、それは怖いもの見たさ、なのか。
 それにしては、鏡の湖に立てられた波風が、あまりにも綺麗な波紋を描き出してはいまいか。
 芽生えた恐怖心――好奇心を抑えようとするには、目をそらそうとするには、彼女の横顔はあまりにも眩しすぎた。
「……でも、風が吹かなければもっと長い間、咲いていられるのに」
 透きとおった音色をもっと聴きたくて、適当な言葉を投げかける。すでに、桜は、視界に入っているだけだった。桜より、彼女を見ていたかった。こんなことあってはいけないのに、だって、でも、今はこの人を見つめていたい。
 少女は黙したまま、あらがうすべを失った。
 いつみは桜の樹へ歩み寄って、太い幹に手をかざす。いとおしそうに寄り添い、瞳を閉じて、抱かれるように、身をゆだねる。どうしたらあんな表情を醸し出せるのか、少女には想像もつかない。
 語る口調は、どこまでも穏やかで安らかだった――
「桜って、どうすれば自分がもっと綺麗になるか、知ってるんだよ。そのために幹と枝は濃く色づいてるし、葉っぱも後から出てくるの。自分を、もっともっと輝かせたいから。
 でもね、そうしてるうちにね、花が散らないと葉っぱを出せなくなっちゃったの。だから風が代わりに散らしてあげることにしたのね。みんなには余計なことするなって嫌われても、葉っぱを出せないと桜が死んじゃうから。
 本当は、風はとても優しくて、桜とは仲がいいんじゃないかな。だってほら、こんなに綺麗じゃない」
 いつみは風を透かし見るように仰ぎ、少女はその視線を無意識のうちに追う。先には大きくそびえる桜の大樹が二人を見下ろし、見守っていた。大地に根ざし大きく腕を広げるその姿に、少女が感じていたような儚さは、どこにもない。
 いつみの瞳が輝いて見えた。風に煽られた房の一切れが頬を撫でて通り過ぎた。脈動が心の中をかけめぐった。
「……私、そう信じてるんだ」
 いつみの目に余っていた涙が、まぶたの細まる勢いで押し出され、頬へ伝う。枝葉に漉された木漏れ日で雫が輝いた時、少女は、一瞬の衝撃に胸を貫かれた。その時に強く吹いた風が、桜吹雪と呼ばれる演出を加えて、いつみの姿をよりいっそうと凛々しく見せた。
 ……たぶん、これが生命の輝きなんだろう。桜があんなに綺麗で、微笑みかける表情がこんなにも美しいのは、今を精一杯に生きているからこそ、なのかも、しれない。
 少女の瞳から、また一粒、流れ落ちる。
 それは儚さに流れる涙?
 ――違う。
「風が春を運んでくれるから、冬の終わりを知ることができる。風が雲を運んでくれるから、雨は降って大地を潤す。その恩恵に、授かる。桜も、私達も」
 いつみは、そうつけ加えると、少女の涙を指先で優しく拭った。
 春の陽差しと、この白く澄んだ頬には、似合わない。
 そんなことを思った。
 少女のやわらかい感触はどこか母の温もりを連想させて、自分の涙を拭うことも思いつかなかった。ずっとふれていたかった。ひと目見て衝撃的に焼きついた印象が、なにか得体の知れないくすぐったさを覚えさせた。
「七瀬いつみ」
 いつみは、抜けるような笑顔で名を告げた。
 少女は、瞳をまっすぐに見つめたまま、いつみの頬に伝った涙を優しく拭う。ひどい寂寥感を鮮やかに消し去った見知らぬ彼女は、不意に訪れて、心の隙間に入りこんだ。もう二度と消えないように感じたし、――手放したくないと思った。
「香代子、……安原香代子」
 少女は初めてあたたかい微笑みを見せ、いつみに応えた。
 互いの指先に宿った雫は、どこかほのかに甘い香りとともに、舌の上で淡く溶けていった。

 そうして、二人は契を交わしあった。
 それは、契に他ならなかった。
 この時、心はすでに奪われていた。

「よろしくね、香代ちゃん」
「うんっ」

 ―― 一年前、桜の花咲く校庭の片隅、風の音に導かれるまま、二人は出逢った――

 ……あの日に交わしたのも、また、心と、涙だった……

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