「……私もね、初めて会った時から、香代ちゃんのことがずーっと好きだったんだ」
 舌先で溶けた涙の余韻を含みながら、いつみも、ずっと内に秘めていた想いを伝えた。
 どうしてだろう、さっきはあんなに固くなっていたのに、なぜか自然と言葉が出た。それは、決して香代子に先手を打たれてしまったからでは、ない。
 自分の心に宿っている、隣の少女を想う。
 これが恋だと言うのなら、それでも構わない。これを愛と呼ぶのなら、それも構わない。それは変だと思われても、全然構わない。
 だけど、もっと、なにか違うような気もしていた。恋でもなく、愛でもなく、よくわからないけど、もっと、なにか大切な気持ち。
 この時、二人は同じ瞬間に、まったく同じことを感じていた。
「……私ね、いつみちゃんと逢えて、本当に良かったなって思うの。だって、今年は桜が咲くのこんなに楽しみなんだもん」
 香代子はうつむいて、恥ずかしそうに、嬉しそうに、いつみの心臓を突き刺した。
「…………!!」
(いけないっ、まともに入ってしまった……っ!)
 目まいすら覚えて、慌てて香代子を視界から外した。突き刺された心臓がどきどきと苦しそうにうめく。
 なんでこの人はこういうことを平気で言えるんだろう。信じられない。狙ってやってるのなら、とんでもない人だ。将来は女優でも目指した方がいいかもしれないっ。
 それくらい、ひどかった。なんてかわいいんだろう。この子と出逢えたことを、いったい誰に感謝すればいいんだろう。
 いつみは天の神様にでも祈ろうと天を仰いだ。でも、なにか違うような気がして考えを改め、香代子の向こう、街路に見える桜の樹を正面に据えた。そっと目を閉じて、桜の樹と、風の神に。
「桜の神様、風の神様、私を香代ちゃんと引きあわせてくれて、どうもありがとう。むにゃむにゃ」
 自分の名前にふと顔を上げた香代子が、なにやらぶつぶつと言い始めたいつみをのぞきこむ。眉根を寄せて必死に祈りを捧げる姿をまじまじと眺めて、くすっと笑みをこぼす。
 この人って、考えてることがそのまま口に出てくるから面白い。絵に描いたような「嘘のつけない人」よね。
――えいっ」
 ちょっと浮かんだいたずら心からか、香代子の小さな声が、いつみの祈りを邪魔するように遮った。

    †

 二人の遠く正面で、「彼」が、ちょうど地平線に触れた。大きな躯体を横たえるように、街の彼方へ沈みかけていた。対として、その反対側で夜の女王が、丸く清らかに輝きを帯び始めていた。
 幾億年も前から欠かさずくり返されてきた儀式が、今宵も執り行われようとしていた。

 いつみがはじかれるように立ち上がって、両腕を地平線になぞらえながら、どこまでもいっぱいに広げる。大きく息を吸いこんだ胸の中で、くすんでいたものが磨かれるように洗われるのを感じる。
 そして、ひとつの実感を嬉しそうに確かめた。
 ――うん! 私は、ここにいる――
 自分はここにいる。自分は生きている。だから、どこへでも行くことができる。今は小さな雛でも、大きくなれば空を翔ぶことだってできる。
 実感が確信へとつながる。自由の謳歌が果てしなく続く。心の内にふくれあがったものが、際限なく大きくなっていく。

(それはなに?)
〈希望!〉

 自分が生きているから、自分はここにいて、自分で歩ける!
 そう、どこへだって――
 振り返ったいつみは手を差しのべた。
 それは、選択だった。
 香代子を誘っていた。
 一緒に行きたかった。
 一緒に来てほしかった。

(どこへ?)

 愛する親友へ向けられた細い眼差しは、どこか小悪魔の印象を呈していた。しかしその表情は、香代子には読み取ることができなかった。愛する親友の姿が夕陽で逆に写され、まるで影が闇への誘いをかけてきているように見えた。
 差しのべられた手を取ってしまったら、闇に引きずりこまれてしまうかもしれない。もう二度と抜け出すことはできなくなるかもしれない。どこか、戻ることはできない場所へ連れていかれるかもしれない。
 そんな不安におそわれた。
 自分は今、選択を迫られている。
 なぜか、そう思った。
 だから一瞬だけ、躊躇した。
 一瞬、だけ。
 誘いに応える手は少しためらいがちだったが、そこにあるはずの瞳を見つめ返す眼差しは、決心――いや、覚悟さえ宿していた。
(たとえどこへだって、いつみちゃんとなら――
 不安は、恐怖の前に、どこまでも無力だった。
 いつみのいない世界。
 それがなによりも怖かった。
 一時の気の迷いなのかもしれない、若さゆえの迸りなのかもしれない、現実を見据えていないだけのかもしれない、たとえそうだとしたって、無限に分かれていく道を、皆、選んで生きているのだ。
 進むべき道は、選ばなければならないのだ。

(だれが?)
〈私が!〉

 自分は生きているのだから、自分の進むべき道は、自分で選ぶ!

(どこへ?)
《二人一緒なら、どこへでも!》

 いつみは誘いに応えてきた手を掴むと、いきなり力まかせに引き寄せる。
「うりゃっ!」
「きゃっ!?」
 立ちかけていた香代子は思惑通り簡単に体勢を崩して、余った勢いをいつみに預けてきた。自分よりひとまわり小さい香代子は思いのほか軽くて、もう少しで泥遊びをしなければならなかった。

 強く、いとおしむように強く、胸の中に香代子を抱きしめて、
 強く、せつなくなるほど強く、腕の中に抱きしめられながら、
 あるだけの想いをこめて、髪の感触のやわらかさを頬に受けていた。
 息苦しさを感じながらも、頬の感触へ身体を預けるままにしていた。

 たまたま通りがかった買い物帰りの主婦と仕事帰りの会社員は、その光景をちらりと横目に見たが、どちらも取り立てて気にはとめなかった。仲の良い友達がじゃれついている程度にも思わなかった。二人の間にある絆が友情よりも深いものであることなど、考えもしていなかった。ただただ、己の家路を急ぐのみであった。
 二人はいつまでもこのままでいたいと願っていた。誰かに見られることなど気にもとめていなかった。自分達の行く先になにがあるかなど、考えもしていなかった。ただただ、今この時を大事にしたいと思うのみであった。

 ――どれくらいそのままでいただろう。香代子が顔を上げ、いつみの視線を求めた時、時間は長い長い束縛を解かれた。それでも二人は至近で一直線に見つめあい、再び時の流れを縛ろうとする。
 かあっ。
 その時、番いの大樹にとまって様子を見ていたからすが、呆れた声を上げて宙を舞った。羽音は二人を我に返らせ、大樹が「彼」ではなく「彼女」に照らされつつあることを知らされた。
 夕焼けの匂いはだいぶ薄らいでいる。
「あっやばっ!」
 ようやく時間を把握したいつみが叫ぶ。
「ごめん香代ちゃん、今日お兄ちゃんと約束してたの忘れてた!」
 ベンチに置いてあった鞄を取り、相当慌てた様子で香代子の分も手渡す。早くしなければ兄のバイトが終わってしまい、給料日にかこつけてなにか買ってもらおうという目論みが水の泡になる。幸い今なら間に合う。急がなければならない。
「香代ちゃんも一緒に行こうよ」
 いつみは香代子の手を取って誘ったが、「ううん、わたしももう帰らなくちゃ。ごめんね」と返された。やや気乗りしない様子もうかがえた。
「ありゃ。それは残念」
 もう一度、香代子をぎゅっと抱きしめる。先と違い、自分の背にも手がまわる。
「ごめんね」
 香代子はくり返し、いつみは「ううん、いいよ」と答えながら名残惜しそうに離れた。
「それじゃまた明日、学校でね」
 いつみはにこっと笑って駆け出す。公園の出口で振り返り、建物の陰に隠れる寸前、もう一度振り返った。大きく手を振って、愛する友へしばしの別れを告げていた。香代子は小さく手を振って、愛する友に応えた。

 しばらくののち、あたりは一面に暗くなり、月明かりと街頭のわずかなともしびだけが公園の姿を浮かべていた。雄々しく見えた番いの大樹が不気味に葉を鳴らす。風に揺られたブランコが寂しそうに泣く。
 その片隅のベンチに、香代子がいた。身じろぎもせず、ただずっとうつむいていた。時々聞きとれない声でなにかをくり返し、スカートを握る手に力をこめていた。スカートにはいくつもの斑紋がいくつもいくつも描かれ、それでも重ねて雫は落ちていた。

 遠い彼方から電車の警笛が聞こえる。
 遠い天空では夜の女王が燦然と輝く。
 細く涸れた音が公園に広がっていく。
 それでも番いの大樹は、ただ香代子の姿を見守っていた。

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